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瑤臺歸去洞天方看清絕

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するのは明治5年(1872)のことで、『江戸砂子』の記述が元になっている。その点では、有楽屋敷があったかどうかは別にして、有楽町の由来は織田有楽斎なのである。
 つまり、有楽町は人名由来の文化地名ということになる
 有楽原があったとされる数寄屋町だが、数寄屋は茶室のことで、やはり文化地名である。安土桃山から江戸初期にかけての茶の湯流行に伴い建てられた茶室風様式を取り入れた建築は、数寄屋造りと呼ばれる。
 つまり、数寄屋町あるいは数寄屋橋は、茶室あるいは茶の湯に因んでいると思われ、その点では有楽町同様、この辺りが何らか茶の湯と関係があったのではないかと思われる。
 明和9年(1772)の『再校江戸砂子』には、有楽原があったといわれるのは「元すきや町二丁目三丁目の所」と書かれている。
 江戸期の古地図を追うと、もとは数寄屋町と呼ばれていたが、1800年前後の一時期地名が消えている。『再校江戸砂子』は元数寄屋町になっていることから、この時期までに町名が変わっていた。
 その後、数寄屋町と元数寄屋町の2通りの地図が現れるが、元数寄屋町が一般的だったと思われ、江戸後期の『御府内備考』の町家の案内にも、元数寄屋町1~4丁目と表記されている。
 明治に入ってからの町名表示は元数寄屋町となっている。
 
『御府内備考』は、江戸後期に編纂された江戸の地誌『御府内風土記』の資料集で、『御府内風土記』の方は明治5年(1826)に不幸にして焼失し、資料集だけが残された。
 その『御府内備考』の数寄屋橋御門の項に、数寄屋町というのは御数寄屋の者の屋敷があったからと書かれている。御数寄屋の者というのは数寄屋坊主のことで、幕府で茶礼・茶器のことを司った職名。
 この数寄屋町があったことが数寄屋橋の名の由来とされている。因みに『再校江戸砂子』の数寄屋橋の項には、すきや町に出る御門としか書かれていない。
『御府内備考』には、数寄屋橋御門内に羽柴美作守(みまさかのかみ)秀治の屋敷があったと書かれている。
 この屋敷は武州豊島郡江戸庄図(1624-43)と新添江戸之圖(1657)で確認することができる。絵図には堀美作と記されている。 
 この地は有楽町駅前掉頭髮原因再開発の際、2005年に遺跡の発掘調査が行われていて、江戸前期には堀家などの大名屋敷、1707年からは南町奉行所があったことが実際に確認された。現在、イトシアがある場所だ。
 堀美作というのは下野烏山初代藩主・堀親良(1580-1637)のことで、親良は秀吉の家臣として羽柴美作守秀家の名を賜った。関ヶ原では家康に与し、慶長11年(1606)に屋敷を下賜され、大坂の陣の後、慶長20年(1615)に羽柴姓から堀姓に戻している。
 秀治は慶長11年(1606年)に死んだ兄の名で、『御府内備考』の記述は秀家の誤記と思われる。2代藩主は、堀親昌美作守(1606-1673)。
 有楽町駅前再開発の発掘調査で興味深いのは、1606~1630年代、1630~40年代の遺構から茶道具が大量に出土したことだ。
 数寄屋橋が架けられたのは寛永6年(1629)のことで、その頃すでに門外に数寄屋があったとすると、堀親良もその影響を受けたのかもしれない。
 地名の謂れは古ければ古いほどに虚実不明の憶測が入り交じり、中には語源をすべてアイヌ語や朝鮮語に求める人もいて、それはそれで面白い。
 伝承も結構当てにならず、そんなところに推理小説のような楽しさもあり、どんなアイディアでも辻褄が合っていれば立派な説となる。
 というわけで、江戸初期の数寄屋橋御門辺りをめぐる茶にまつわる地名の話はこれで終わり。近くにはこれまたヤン=ヨーステンが地名の起こりとされる八重洲もあって、それはいずれまた。
 地名考はミステリー引伸波幅&ロマン。